成功するまでの過程を努力と言う
更新日:2022年5月21日
こんにちはOne Bridge アカデミーです。
先日、武蔵野中の授業公開日に生徒の姿を見に行きました。
そこで学校の先生に写真を撮られていたようでして、図らずも武蔵野中のHPデビューしてしまいました。
恥ずかしいです。
さて今回は久々に、当塾の勉強についての考え方みたいなものをご説明できればと思います。
最近よく生徒から「でも頑張ったんです」という言葉を聞きます。
大抵は宿題が終わらなかっただとか、テストで点が振るわなかったとか、そういったネガティブな状況でよく聞く言葉です。
つまりは結果は出なかったけども、
「頑張ったこと自体を評価して欲しい」
「できることはやったんだから仕方がない」
「次の機会への糧になった」
この言葉にはこんな意味が含まれているわけですね。
結果が大切なのか、それとも過程が大切なのか
これはもう永遠に決着のつきそうにない議論のように思えます。
というのも、状況によってどちらが大切かなんて一概に言えないからです。
取り返しのつかないことであれば結果が大切でしょうし、まだまだチャンスのあることでしたら過程も大切でしょう。
結局のところ結果も過程も大切なのです。
しかしここで「どちらも大切だ」なんて分かりきったことを言うつもりはありません。
あえて断言しますと(勉強については)結果の方が大切です。
ではそう思う理由を述べていきたいと思います。
まず何のために勉強をしているのでしょうか。
ほとんどすべての人は、
よい学校に行き、よい就職をし、よい生活を送るため
なのではないでしょうか。
"よい"の部分を"望む"に代えても同じです。
もう長い間、日本は学歴社会から脱却すべきだという議論はありまして、実際にそうなりつつはあると思います。
しかしそれでも依然として日本は学歴社会です。
私自身も就職活動の際に学歴の重みをとても実感しましたし、私よりも上の世代もそうだったと聞いています。
欧米や他のアジア諸地域も同様だと認識していますが、日本においては自分の生活環境をより良くするのに学歴が必要なんですね。
もちろん特殊なスキルや才能がある人はその限りではありませんし、私個人としては学歴なんてと思う部分も多々あるのですが、ここでは勉強の意義やそういったことは除外して述べます。
以上を踏まえると、中高生が勉強するのはよい学校に進むためと言えます。
よい学校に入学するための試験は、それぞれが真剣勝負です。
指定校推薦や総合型選抜を狙う人は1回1回の定期試験、そうでない人はたった1回のテストの得点が進路を決めてしまうのです。
そういった勝負の世界にあって、テストの点数を取るという目標が達成できていないのに
「でも頑張った」
としてしまうことは、失敗したという現実からの逃避、あるいは慰めに過ぎません。
結果のために努力したのだから、結果が伴わない努力は無駄な努力だったと考えるべきでしょう。
失敗するぐらいなら、辛い勉強なんてせずに遊んでいた方が精神衛生上ずっと有益だったのです。
もちろん本音を言えば、「頑張ったこと自体は大切」だと私も思います。
受験生を見ていると、仮に結果が出なくとも一生懸命目標に向けて努力した子は強い人間になると思わされます。
ですがここで私が言いたいことは、だからといってそれを本人が、結果が出なかったときに金科玉条かのように振りかざすのは間違っている、ということです。
繰り返しになりますが、勉強はよい学校に入学するためのテストで点を取るためにやるものです。
「目標に向けて頑張ったこと自体が大切」というような曖昧な成果を見出すことは、点数勝負という入試の純粋さを失わせることになります。
目標を達成できなかったときに、その失敗分を減じ補償する唯一の方法は、失敗を真摯に受けとめて反省することだけです。
ただ反省し、次回はどうすれば成功できるのかを考えることです。
そうすれば失敗にも実利面で意味があったと言えます。
しかし「でも頑張ったんです」と失敗を成功かのように誤魔化すことは、それとは対極の心理的態度です。
反省という、失敗がもたらす唯一の実利を失わせてしまう唾棄すべき態度だからです。
こういった考えから、我々は「でも頑張ったんです」を認めません。
点数として表れない自己満足のための勉強は、無駄なことしたねと一蹴します。
タイトルにもありますが、結果から考えて、失敗した場合の努力は努力とは呼べず、ただの無駄な労力なのです。
勉強する以上は、その目的であるテストの得点となってはじめて努力と言えます。
そのような姿勢が成績向上には必要なのではないでしょうか。
今回は以上です。
もうすぐ定期試験という時期ですが、皆さんちゃんと勉強していますか?
「でも」と言わないで済むように頑張って下さいね!
それでは失礼します。
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